ユングとフロイト

心理学の二大巨人とも言われるユングとフロイト。

実はこの2人は同時代の人物であり、2人には交友関係がありました。

フロイトの少年期

1856年に生まれ、幼い頃から優秀だったフロイトは両親の期待を一身に受けながらすくすくと成長していきます。

フロイトの父・ヤーコブ・フロイトはジークムント・フロイトを生んだ妻アマーリエ以前に2人の妻がいて、最初の妻サリーの子供(フロイトにとっては異母兄)と同居していました。
幼いフロイトには若いアマーリエが母、異母兄が父・年の離れた父ヤーコブは祖父に見えていたそうです。

また、出自がユダヤであるフロイトですが、父ヤーコブの時代とは異なりちょうどユダヤ解放の流れのある時期だったため、幼少期には自身はユダヤとしての厳しい時代を経験せずに成長しています。

そしてウィーン大学の医学部を卒業し精神科医としてのキャリアを歩み始めました。

ユングの少年期

1875年にスイスで生まれたユングは幼い頃より自分の世界に入り、一人遊びをするのが好きな子供でした。

学校で友人に突き飛ばされて頭を打ったのをきっかけに半年間自宅療養をしますが、学校に復帰。
嫌いな勉強もし、スイスで最も有名なバーゼル大学の医学部に入学します。

卒業後、統合失調症の提唱者オイゲン・ブロイラーの元、チューリヒ大学の精神病院で働き始めます。

交流の始まりと決裂

精神分析の世界で有名になっていたフロイトに、ユングは興味と畏敬の念を持ち出します。その後ユングはフロイトと文通を始め、1907年にはウィーンのフロイトの自宅を訪ねます。

そこで出会った二人は感激し、フロイトはユングのことを最も期待できる後継者候補として絶賛し、その後ユングを大変かわいがります。ユングは憧れの先生に会えたことに感動し、「人生で会った最も偉大な人物」と讃えました。

しかしその後リビドーに関する意見の食い違いや、精神科医は自分自身も精神分析を受けるべきだとする考え方をフロイトが拒否したことなどをきっかけに二人の関係は悪化していきます。

関係の悪化というよりも、自分の思うようにならないユングに対し、競争意識や危機感を持ったフロイトが一方的に拒絶したという方が近いかもしれません。

精神分析の派生

ユングの他、アルフレッド・アドラーなどもフロイトの教えを受ける立場としてフロイトに師事するなど、フロイトは多くの心理学者と交流を持っていました。

しかしユングの例のように、後にフロイトに造反者として弟子としての縁を切られる者も多く、そうして彼らは独自の理論を構築していきました。

フロイトとの関係が切れた後もユングはフロイトを敬愛していたように、同時代の多くの心理学者はフロイトの影響を大きく受けています。

そのため、フロイトの精神分析の考え方を学ぶことは、他の理論を学ぶ際にも多いに役立つといえるのです。